音楽エッセイ

『老人と子どものポルカ』余談

 Sさんのメルマガで『老人と子どものポルカ』のことが話題になっていた。
 誰か、実際に聞いた人がいないでしょうか、だって。そんなことなら我輩に聞いてくれればいいのに…なんてのは嘘だぴょーん。
 そのSさんは小生よりずっと若い。その点、小生は、『老人と子どものポルカ』を高校生になりたての頃に聞いたのだ。歌謡曲や演歌が全盛で歌番組はクイズ番組と並んで庶民がテレビで楽しむ大きな娯楽源になっていた。
 この唄は、左ト全さんがひまわりキティーズ(ひまわりキティーズには、ル・クプルのヴォーカルEmiさんもいたという)をバックコーラスに歌っていたもので、氏が76歳の時にブレイクしたもの。ちなみにその翌年、氏は逝去されている。
[推奨はしないが、今の若い人には左ト全さんがどのように映るのかを知るには、参考になるかも。]

 ゲバゲバは、想像されるように過激派の内ゲバのこと。当時は凄まじかったのだ。何十人が内ゲバや総括で殺されていったことか。
 また、市街地で学生が闘争(学生運動の域を超えていた)をし、その際、武器としてレンガなどの敷石を剥がして、警官隊に投げつけたりした。それ以来、道路(歩道さえも)の舗装はコンクリートやアスファルトのみになったという(本当か嘘か分からない)話さえある。
 ただ、学生闘争の結果、御茶ノ水やなどが瓦礫の町に化したことは事実。もっとひどかったのが新宿駅だったようだ。
 70年代の後半から次第に大学のキャンパスが郊外へ移されるようになったのも、学生を純粋培養し、社会から(また他の大学からも)隔離するためという目的もあった。
 偏差値の導入も70年代の初頭からだが(表向きの狙いはあるのだろうが)、それは学生を成績(数値)で序列化することで、人間性(潜在的能力も含めて)をも序列化されてしまったかのような妄念を叩き込む目的もあったと思っている。
 事実、偏差値の導入後、のびのびとした学生がなくなり成績至上主義になっていった。教室もギスギスしだしたような気がする。
(そうした他人行儀な雰囲気が一層濃厚になったのは、内申書の導入があってからだろうか。)

 事故事故は無論、交通事故。まさに交通戦争真っ盛りの時代だった。年間一万五千人以上の交通事故死亡者があった。大人しい我輩も、何処か殺気立つ道路が怖かったという子供の頃の思い出がある。
 あまりに出来の悪い息子だった我輩を見かねて、尼寺へ行け、ではなく、小生は算盤(そろばん)塾に小学校の4年だったかの頃、行かされた。
 が、或る日、塾の帰り道だったかに路上にベットリと自動車事故で流された血糊を見て、何かショックを受け、その日から塾へ行くのを止めたという記憶がある。尤も、塾通いが最初から嫌だったのだが。
 とにかく子供には道路は殺伐としていて、怖かったのだ。

 この頃、70年代(さらには昭和40年代)をノスタルジー的に語る事が多いが(昭和30年代か40年代を再現した町とかが台場に出来たとか)、当時は、よく言えば活気に満ちていたのだろうが、実際には焼け跡から高度成長期に入り、誰もが殺気立っていた時代とも言えるのではないか。
 モラルも何も超えて、とにかく経済的発展重視だった。公害でどれほどの人が悲惨な状況にあったか。工場の排気や放棄され放置されるゴミ、やっとこの頃、ディーゼル規制に石原都知事が立ち上がったが、バスやトラックだけではなく一般の乗用車だってひどい排気ガスだった。
 『老人と子どものポルカ』という歌の歌詞にはストストというのがある。勿論、ストライキのこと。労働環境・条件が劣悪だったことは言うまでもない。従って、今は見る影もなく労働組合は力を失ったが(これは不幸である)、当時はストライキをやる力も気力もあったし、やらなければならなかった。かの国鉄(今のJR)でさえ、順法闘争ということで、ストライキをやる時代だったのだ。 

 この唄に前後して、変わった唄として一世を風靡した唄に「黒猫のタンゴ」とか「泳げ、タイヤキ君」がある。
 まず、左ト全の歌う『老人と子どものポルカ』は、小生は好きだった。歌詞がつまらないという意見もあるようだが、そんな表面を見てはそれこそ面白味が分からない。当時として最高齢歌手という異名もあったという左ト全の、微妙にタイミングのずれた(ずらした)歌い方に注目すべきだ。そこにユーモラスな雰囲気が漂う源泉がある。
 彼、左ト全は黒沢映画「七人の侍」、「生きる」、「どん底」などにも何本も出演した芸達者な、正に芸人なのだ。生真面目に、でも、見るほうは(聞くほうは)滑稽に映ってしまう、それでいてバックコーラスは可愛い子供たちで微笑ましい、そうした幾重にも輻湊する要素が絶妙の味となっていたのだ。
 前にも書いたように左ト全はこの唄がヒットした翌年の71年まで現役で役者人生を送った果てに亡くなられるのだが(なんと、」「男はつらいよ」「ハレンチ学園」などにも晩年、出演されていたとか)、浅間山荘事件が勃発したのは72年だし、70年71年の頃、つまり『老人と子どものポルカ』が流行った頃というのは、総括で有為の若者が殺されていた真っ最中だったことを銘記すべきだろう。

「黒猫のタンゴ」も異例の唄だが、「泳げ、タイヤキ君」も異例な唄だ。「毎日毎日ぼくらは鉄板の上で焼かれて、いやになっちゃうよ」という歌詞に企業戦士として、ひたすら家庭や私生活を犠牲にしてサラリーマンは働いていた、その人生の悲哀を感じた人も多いのでは。
 小生など、学生だったのに、妙にこの歌の歌詞に実感を覚えたというか、共感したものだった。
 つまり、サラリーマンでなくても、鉄板の上で焼かれているみたいに、懸命に前進を続けていたのだ(成績の向上、立身出世、給料のアップetc.)休むという発想法は浮かばなかったのではなかろうか。とにかく月火水木金金と働き、日曜日は接待や付き合いのゴルフで実質仕事。
 そうやって高度成長経済は成ったのだね。
 今でこそ、右肩上がりの経済だとか評するけれど、その渦中にあっては、死に物狂いだったのだ。その必死さを忘れて、町並みに人間味を嗅ぎ取って、ノスタルジーのみに浸るのは、片手落ちというもの。
 半面において、犠牲にしたものも多かったのだということを忘れるべきではないと思うし、忘れずに当時を思うときには当時の社会・世相の裏面への注釈を加えて欲しい。
 そんな、いい意味でも悪い意味でもひたむきな時代だったのだね。
 長くなったので、これでやめておきます。


                                (03/05/18)

新しい童謡、古い童謡

 昨夜、日本童謡協会(その存在を昨夜、初めて知った)の協会の会長である湯山昭氏の話を、若干だが、聞くことが出来た。 
 不肖なる小生は、有名らしい湯山昭氏の存在を昨夜、初めて耳にした。アナウンサーが、「ややま」と言っているのか「ひやま」と言っているのか、分からなかったくらいだ。で、今、検索してみて初めて湯山昭氏なのだと分かった次第。

 なんとか一度は湯山氏の作曲した曲を聞いてみたい。
 最近の音楽の教科書から往年の童謡や唱歌がなくなっているのではないか、とのアナウンサーの質問に対し、湯山氏は、確かにかっての慣れ親しんだ名曲は教科書から消えていっているが、その代わり新しい童謡が紹介されているのだと言う。
 どんな曲なのか、ますます興味が湧く。子供がいる家庭なら、聞く機会があるんだろうな。
 でも、「赤とんぼ」を知らない子どもってのは、やっぱり寂しい。童謡って親子が一緒に歌えて初めてその値打ちがあるものだと思うんだけど。
 それにしても、どうして童謡って、こんなに胸を打つんだろう。小生が年を取ったせいなのか。
「この道はいつかきた道」なんて、歌っていると、その時に覚える郷愁の念、懐旧の念というのは強烈なものがある。
 どこか、大人になって改めて昔話や童話を読む時の感じに似ているようでもある。
 童謡・唱歌のページはたくさんある。
 例えば、「かしい童謡・唱歌・わらべ歌・寮歌・民謡・歌謡」など。



                      (02/03/23)
プロフィール

drecom_ecchu

タグクラウド
QRコード
QRコード
  • ライブドアブログ