2005年01月

地上の星々(2)

[本稿は、最初メルマガに、ついでホームページに収めていた文章(その2)です。写真を掲載するため、ここに転載します。写真は、この1月9日に行われた我がサンバチーム・リベルダージの新年会の模様です。したがって、写真と文章内容に直接の関係はありません。プライバシーの都合もあり、画質は落としてあります。]



 そういえば、小生の大好きな小説に、ゴンチャロフの書いた『オブローモフ』がある。もしかしたら、ドストエフスキーとか、チェーホフとか、セリーヌとか、島崎藤村とか、谷崎潤一郎とか、川端康成とか、そうした作家たちのどんな作品よりも、小生は、この作品が好きなのかもしれない。
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「主人公オブローモフは、農奴制度に依存する貴族階級の安逸と無為と倦怠の、ロシア文学における典型となって、体を動かすくらいならいっそう夢でもみていようという人間」である。
 現代にあって、さすがに農奴の制度は存在しないが、全てが合理化され機能化されていったら、掃除も洗濯も食事も愛欲も、その全てがデジタル化されていったら、体を動かすくらいならいっそ夢でも見ていようと思う人間達が現れてもおかしくはないわけである。
 体を動かすのさえ、バーチャル空間で楽々で可能になるのだろうし。
 そのオブローモフ主義を打ち破るのは、一体、何なのだろう。全てが満たされても、それでも、隙間風が吹きまくるのだとしたら、何が人を生きるほうへ駆り立てるのだろうか。

  話がずれたようだ。地上の星。天の星々が無数にあるように、地上の星たちも、無数にあるのだと思う。無名とはいえ、仲間がいて、あるいは幸運にも記録に残されて、濃密はあれ、語られる星たちもいるだろうけれど、語られることのない星たちも、その幾層倍も、いるに違いない。
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 小生は、仕事柄、終日、町中を車で移動する。時には駅で空車の列に連なって、いつ来るか知れないお客さんを待つことがある。
 すると、ロータリーでは、いろんな人間風景に出会う。例えば、先日、双子の男の子を連れたお母さんを駅で見かけた。
 男の子たちは、幼稚園にはあと1、2年かなという感じ。でも、生意気盛り、元気一杯の男の子達。駅でお母さんは自転車に男の子達を乗せようとする。
 でも、自立していることを見せ付けたい、歩けることが誇らしくてならない男の子たちは、それぞれ勝手な方へ行こうとする。見ている小生は、他人事ながら、ハラハラしながら見守っている。
 それでも、一人は、比較的素直で、わりとすぐにお母さんに掴まり、自転車の前の籠に。小生はちょっと安心。
 が、もう一人は、あちこち動き回り、生意気にも近くの本屋を覗いたりする。お母さんは、その男の子を捕まえようと懸命。見ている小生が冷や汗掻いたりして。
 それでも、やがて二人目の元気な男の子も、お母さんの手に引かれ、自転車の後ろの籠に。
 あと、ほんのしばらくしたら、そう、一年とは言わない半年もしたら、二人とも、お母さんには掴まらなくなるだろうな。そしたら、お母さんは、泣きべそを掻くのだろうか。途方に暮れるのかな。それとも、そんな程度のことにめげては、母親はやっていられないのかな。
 ホント、お母さんは、大変だ。
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  そう、そんな苦労など、苦労のうちに入らないのかもしれない。夜中に風邪か何かで熱を出す子ども。お父さんは、仕事で今日も帰らない。一人で懸命に看病したり、それとも救急車を呼ぶべきかと迷ったり。
 朝方にでも子どもに熱を出されたら、自分だって仕事を抱えているのに、どうしたらいいのか、途方に暮れてしまう。一体、首を覚悟で子どもを優先すべき? それとも後ろ髪を引かれる思いで仕事へ行くべき?
 あるいは近所付きあいに亭主との諍いに、姑などとの遣り取り。自分の体調、ありとあらゆる問題が、次から次へと降りかかってくる。子育てを終えた頃には、容色も衰えて、若い頃のようにはちやほやされなくなってしまう。子育てしている間に、みんなに置いてきぼりを食らってしまう、という無闇な迷い。
 でも、そうした一切は、当たり前すぎて、やって当たり前、やり遂げて当然、逆に失敗したら責任を何処までも追及されるだけ。
 地上には数知れない星々がいる、というより、星々に満ち溢れているのだ。しかも、その輝きが人には見えない、窺い知れない、雲か霞のうちに蔽われていて、時には誰も相手にされない煌きだったりする。下手すると、末期の、白鳥の歌のような耀きなのかもしれなかったり。

 そう、中島みゆきの「地上の星」にもあるように、「風の中のすばる 砂の中の銀河 みんな何処へ行った 見送られることもなく」であり、「草原のペガサス 街角のヴィーナス みんな何処へ行った 見守られることもなく」なのであり、みんな、「地上にある星を誰も覚えていない 人は空ばかり見てる」なのである。
 だから、「つばめよ高い空から教えてよ 地上の星を つばめよ地上の星は今 何処にあるのだろう」という歌詞には、繋がらないのだと思う。
 というか、地上には星屑に満ちているのだ。何処も彼処もスターダストだらけなのである。

 そんな地上の星たち、星の欠片たちの輝きに一旦、気が付いたら、この世は眩しすぎるのに違いない。銀河の砂で世界が一杯なのだとしても。みんな自分のことに手一杯で、懸命で、神経が周囲に及ばないのだとしても。あるいは、眩しすぎることに気が付いて、神経が麻痺してしまったのかもしれないのだとしても。
 それほどに、実は、地上の世界は、人間に限らず、生きとし生ける全ての存在の放つ耀きに溢れている。
 そんなことをぼんやり思っていたら、ちょいと休憩のし過ぎになってしまった。さあ、仕事だ!



                 (03/10/31 記)

地上の星々(1)

[本稿は、最初メルマガに、ついでホームページに収めていた文章(その1)です。写真を掲載するため、ここに転載します。写真は、この1月9日に行われた我がサンバチームリベルダージの新年会の模様です。したがって、写真と文章内容に直接の関係はありません。プライバシーの都合もあり、画質は落としてあります。]



 公園の脇に車を止め、ぼんやり夜空を眺めていたら、星が瞬いているのに気がついた。
 少し靄っているので、識別できる星の数は少ない。
 思いっきり強烈な光を放つ星だけが、やっとその存在を誇っているのかもしれない。
 そんなとき、ふと、「地上の星」という楽曲を思い出した。
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「地上の星」というと、言わずと知れた中島みゆきの作詞・作曲した「プロジェクトX・挑戦者たち」という番組の主題歌である。
 「曲作りにあたっての注文は、「無名の人々の光を、歌にしてください」とのこと」だったとか。
 この曲を聴きながら、そして感動的な番組を見ながら、オレだって無名ではあるけれど、人には言えない苦労を重ねてきたんだと、自らの体験をダブらせながら、この番組を見、あるいはこの曲を聴く人も多いのではなかろうか。
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 番組で扱っているのは、無名ではあるけれど、実在の人物達というのがミソなんだろう。しかも世間的な評価も受けることが可能な人々。だったら、自分だって、その候補の一人であってもいいはずだ、そんな思いに駆られる人もいるに違いない。
 恐らくは、そんな人が世の中には無数にいる。無数という言葉が適切でないなら、数知れずと表現してもいい。
 人は誰でも、生きることをエンジョイできる。けれど、苦労なしの人生など、ただの一人もいないと思う。
 早い話が、経済的に恵まれ、容姿にも恵まれ、頭脳も人並み外れ、健康にも恵まれ、と、思いつく限りの好条件を並べ立てて、その条件に当て嵌まる誰かがいると仮定して(そこまで行かなくても、自分から見たら、この人は恵まれている、と思えてならない人はいるに違いない)、そうした人が幸せ一辺倒かというと、そうは問屋が卸さない。
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 そもそも、あらゆる好条件に恵まれても、そうであったらあったで、例えば、息をするのが面倒だとか(だって、苦労といったら、それくらいしか思い浮かばないから)、飯を食うのが面倒だとか(だって、食べ飽きているんだろうから)、ベッドに寝たきりになり(だって、全ては揃っているのだし、起き上がる必要は、一体、何処にある?)、もう、トイレに行くのさえ、面倒になってしまう。
 仕舞いには、尿瓶で用を足すか、オムツを宛がうことになりかねない。
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 苦労のタネは、尽きることはありえない。小生は、一度は哲学を齧った人間である。勉強したことの大半は忘れてしまった(初めから何も勉強してなかったのかもしれない…)。その中で、唯一、今も印象に残っている言葉がある。
 それは、「自然は真空を嫌う」(Nature abhors a vacuum)である。
 これは、元々は、哲学というより、アリストテレスの「真空の恐怖」に由来するような物理学の言葉だった(このサイトなどを参照)。
 が、やがてパスカルにより、「ガラス官の底に水銀を溜めさかさまにすることによって底と水銀の間に真空が存在することが証明」され、必ずしも、自然は真空を嫌ってはいないということになったようである。
 が、それも、現代ではとっくの疾うに否定されている。そもそも宇宙自体が真空から生れたのではないかと考えられているほどなのだ。真空は過剰なほどのカオスとコスモスの揺籃の園なのだ。
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 さて、この自然は真空を嫌うという原理は、物理学に止まらず、あらゆる事象に応用が可能である。人間の生活に当てはめるなら、どんな完璧な条件を備えた人間にも、世間の風は吹きまくるということだ。隙間風は、何処からともなく吹き込んでくる。自然は真空を許さないからだ。
 そうした風は、世間的には、想像も付かない場所から吹き込んでくるものだから、そんな恵まれた人にそんな苦しみや苦労があるとは、理解不能だったりする。つまり、条件に恵まれた存在ほど、その苦悩は孤独の一途を辿るだろうと、理解されるのである。
 その代わり、喜びのタネも、何処にも見出せるのに、違いない。真空を満たすものは、憂慮や怠惰や苦悩ばかりではなく、ちょっとした出来事や発見に幸せのタネが潜んでいないとは限らないのだ。真空を満たすのは、ありとあらゆるものでありえるのだから。

鳥総松(とぶさまつ)

[以下の小文は、季語随筆日記「無精庵徒然草 January 6, 2005」に書いたもの。富山(前田普羅)に関係するので、ここに転記します。 ]

 本日の季語随筆日記の表題は、「鳥総松(とぶさまつ)」 である。この言葉自体、馴染みが薄いかもしれないが、まずは、この言葉を表題に選んだ理由を示しておきたい。
 それは、今から紹介する画人の運命に関係する。彼は江戸時代の絵師なのだが、何故か島流しの刑に処せられたのである。しかも12年も。それでも、生きて帰る僥倖に恵まれた。
 ところで、我が季語随筆日記は、季語随筆と銘打っている。一月の季語に関係し、且つ、島流しに多少でも関係する適当な季語はないか、物色してみた。
 島流しが季語・季題にあるとは、さすがの小生も思わなかったが。
 が、つらつら眺めていると、「鳥総松」という季語があるではないか。確か以前、この言葉に関連する話題を採り上げたことがある。調べたら、あった!
 小生には、「前田普羅のこと」という我が郷里・富山に関係のある俳人を採り上げたエッセイがある。この前田普羅の絶句に「帰りなん故郷を目指す鳥総松」がある(余談だが、普羅が亡くなった年に小生が生まれている。普羅が富山で居住した地は小生の生地に近い。尚、「帰りなん故郷を指す鳥総松」と表記されているサイトもある。字数の上でも、また、鳥総松の持つ性格からしても、「目指す」よりは「指す」のほうを表現として選びたい)。
 別に前田普羅が島流しで富山の地に流れたというわけではないが、何処か遠い地に長くあって、ようやく故地に帰る心境が詠い込まれているということ、且つ、「鳥総松」が一月の季語だということで、本日の季語随筆の表題に選んだわけである。

 今、ボチボチと、榊原悟著『日本絵画の見方』(角川選書)を読んでいる(五十嵐謙吉著『植物と動物の歳時記』(八坂書房)や高橋哲哉著『戦後責任論』(講談社)共々、図書館から借りてきた本で、それぞれに最後までじっくり読書を楽しめたが、残り二冊について後日、触れることがあるかもしれない)。
 その中で、日本の伝統的な絵画作品を見る上で、様式や画題、描かれる素材(紙か板か、それとも絹などか)などと共に、描く素材を見極めるのも大事だという話の流れで、英一蝶(はなぶさいっちょう)のことが話題の俎上に登っていたのである。
 彼の名前くらいは小生も知っていたが、必ずしもじっくり眺めたことがあったわけではない。それが証拠に、彼が島流しの憂き目に遭い、しかも12年の長きに渡っての島流しだったことなど、初耳状態で本書を読んでいたのである。
 本書では、その島流しの期間があまりに長かったため、当初持っていった絵具の材料が底を尽き、乏しいありあわせの素材で、水墨に淡彩、時には草の汁を使ったことさえもあるらしいこと、紙の表装を自前で(小刀で削ったりして)行っていたことなど、英一蝶の島での苦労ぶりが書かれている。
 その前に、水墨画が古来、好まれたのは、その描かれる世界の古雅ぶりもさることながら、そもそも、旅先などで絵を描く必要や欲求に駆られても、旅先に都合よく絵具などがあるはずもなく、一番、簡便な素材は墨だったことが、大きな要因だったことに改めて注意を喚起させられたのだった。当たり前といえば当たり前の話であり、旅というと、腰に筆で文章を書くための最低限の道具類を下げているのは、たしなみのある人士ならば当然の用意だったわけであるが。
 ところで、英一蝶が何ゆえ島流しの刑に処せられたのかは、あまりハッキリしないようである。英一蝶については、例えば、「絵画のおはなし  英一蝶のこと」という、「世紀の終わりのころから18世紀の第一・四半世紀まで活躍した画家」などと、子供向きというか、小生にも分かりやすく説明してくれるサイトがあるので、覗いてみるのがいいかもしれない。
 ここではさらに、「どうして一蝶はそんなにも人気があったのでしょうか。もちろん、その絵は描く力が人並すぐれていたこともありますが、理由はそれだけではありません。それは、かれの人生がふつうの画家では考えられないほど、波瀾万丈のものであったからなのです」などとも説明してある。
 どう、波乱万丈だったか。
 その詳細はこのサイトにも書いてあるが、別に、「英一蝶島流し」という、そのものズバリの表題の頁を覗くのがいいかもしれない。彼には誤伝が多いが、それは「多分に、本人のせいである。まず、使った呼称が多すぎる。」という。
 また、「本名、画号、俳号、書号。芸名、偽名、合せていくつになるのやら。」として、有名な画狂人・葛飾北斎(画狂人も自称である)にも匹敵しそうな何十個にも及ぶ名前の数々その例の数々を挙げている。興味のある方は覗いてみて欲しい。
 一方、彼についての評判記も凄い。ちなみに、「評判記に「男より豪快にして女より優雅、男より繊細にして女より強い。美女も美男もどちらも愛し、貴人より高貴にして賤民より卑しく、僧より僧で、武士より武士。金と湯水の区別をつけぬ富豪にして他人{ひと}の財布で生きる貧乏人。神仏のごとく尊ばれ、蛇蠍のごとくきらわれ、生きて生を超え殺して死なず、鋼鉄{はがね}より重く、空気より軽{かろ}き者、云々」だとか。
 それでも、やはり、「一蝶が遠島になった理由となると、これがまたよくわからない」という。
 思うに、こんなケッタイナ人間は、何処か遠くに追いやりたい気持ちも分からないでもない。小生が当局者で権力があったりしたら、煙たくなって、見えないところに左遷させるかもしれない。半ば、嫉妬の念に駆られて。
 彼は生前、島流しの刑に処せられる前は、暁雲(ぎょううん)の名の「俳諧師としての名声の方が高かったようです」という。芭蕉や大名などとの交流もあったらしい。
「罪が何であったのか、これも実は完全にはわかっていないの」だが、とにかく、「1709年、将軍の綱吉(つなよし)が死に、将軍が代(だい)がわりになったことを記念した大赦(たいしゃ)を受けて、一蝶は江戸に還(かえ)ってくることになります。このとき、一蝶はすでに58歳になっていました。」という。
 ところで、「英一蝶」という名には、面白い逸話がある。つまり、「帰還(きかん)する船のなかで、かれは一匹の蝶を見つけ、それまでの朝湖の名を捨てて一蝶と名のるようになったということです。英(はなぶさ)は母の姓の花房からとられました。」というのである。
 帰還後には芭蕉も親友の其角もいなくなっていたとか。
 まあ、そんな紹介より、「絵画のおはなし  英一蝶のこと」などに紹介されている「梅月山鵲」や「蓮鷺図」などの紙本墨画を是非、見て欲しい。
 小生が、敢えてこじつけてまで英一蝶のことを紹介しようと思ったのも、それらの作品を見て、すげえーと感動したからなのである。
 
 ところで、ここまで書いてきて、そも、「鳥総松」とは何ぞやと疑問に思われる向きもあるだろう。そう、ムキにならずとも、途中、示したサイトに説明が加えられているのだが、改めて引用しておく。
 つまり、「門松を14日の「とりまて」に取り除くとき、その跡の穴に小枝を刺す習慣が、沓掛・生子・菅谷地区などに見られる。これをトブサマツ(鳥総松)と呼んでいる。『万葉集』に「鳥総立て足柄山に船木伐り樹に伐りにゆきつ安多良船材を」とあるように、昔、きこりが木を伐ったとき、伐った梢をその株に立てて山神をまつったという習俗、当地の正月行事に今も生きている」というのである(「猿島町ホームページ」の中の「小正月(こしょうがつ)」という頁を参照)。

 それにしても、「鳥総松」を織り込む句を作るのは、今時の人には習慣に馴染みがないからには難しいのではないかと思われるが、それでも幾つか散見される。
「大仏に雨意のうつりし鳥総松」()や、あるいは「根付くかと根付かぬかなと鳥総松」や「亡き母に教はりしまま鳥総松」など。
 また、「残り火の細き紅あり鳥総松」や「水引きを輪結びにして鳥総松」などのような意味深なもの。さらには、鳥総松向きを自在の一輪車」や「犬が来て仔細に嗅げる鳥総松」なども目に付いた。

 いずれにしても、句の出来は別として、英一蝶に関連付けるとしたら、前田普羅の絶句である「帰りなん故郷を目指す鳥総松」に止めを刺すのかもしれない。
 さすがに小生には、「鳥総松」では句を捻ることができない。せめて、「鳥総松」の画像をネット上から探したのだけれど、見つからなかった。残念。ま、英一蝶の画業に尽きるということで、今日の日記は締めておく。
 でも、やっぱり蛇足の弥一の本領発揮だ!

 鳥総松風のまにまに揺れるのか
 鳥総松切り倒すとも芽吹きあり
 鳥総松風見鶏とは違うのさ
 鳥総松せめての手向け小枝刺す
 小枝刺し手向けと願う鳥総松
 鳥総松刺されし枝は故地を向く
 故地向けと小枝倒して鳥総松
 切り株に爪楊枝刺し鳥総松?
 割り箸を突き立てるなよ鳥総松
 鳥総松命引き継ぐ枝清し
プロフィール

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